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巻頭エッセイ


第555w号 【パリさん】:現実という夢

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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:現実という夢 (2015,2/18)
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ぱりさんが書いている、オーラソーマのカラーローズというのは、
この図のことです。
http://aura-soma.co.jp/intro/color_language/

カラーローズは12色とホワイトの13色でできていますが、この
カラーローズの色の曼荼羅から、オーラソーマの色のすべてを理解
し、説明していくことができるすぐれものです。

カラーローズはなにを表すもので、これからどのようにオーラソー
マの113本すべての色を読み解いていくのかは、オーラソーマの
コースで学ぶことですが、いくつかコツさえわかれば、誰にでも自
分でできるものです。

そうすると知識として覚えなくても、自分の経験と知恵と、直感と
カラーローズだけでも、オーラソーマの色のメッセージを読み解く
ことができます。

ぱりさんのオーラソーマでは、そのようなものの考え方のコツを披
露してくれています。

もうひとつ読み解くうえでヒントになるのは、カラーローズを人間
の意識の諸相として読み解く場合、表層の意識と深層の意識をわけ
て考えるとわかりやすくなります。

表層の意識のレベルでは、二元性の原理が作用します。

それは電流が流れるのと同じで、エネルギーが流れるのは陰陽の原
理、プラスとマイナス、プラスとマイナス、ポジティブとネガティ
ブなど二つの極があってはじめて可能です。

表層の意識とは現象世界で、物質や肉体、思考や感情の世界です。

深層の意識は空や静寂、沈黙、無の世界、ないしは本質の世界です。

表層の世界では愛があれば憎しみがあり、信頼があれば不信があり
ます。

常に二元性の原理が支配しています。

しかし、本質的な世界では純粋な愛(慈愛)、純粋な信頼があり、
そこには、その対極がないのです。

その究極が純粋な意識、空であり全体であるような意識、観るもの
と観られるものがひとつであるような意識があるようです。

オーラソーマのイクイリブリアムは「意識の鍵」だとボトルに記載
されていますが、その意識の鍵を読み解く鍵のひとつが、このカラ
ーローズです。

それでは、「【ぱりさんのオーラソーマ】:現実という夢」を、ど
うぞお楽しみください。

                           尚 記


       ………○…………○…………○………


ときどき、幕あいに顔を出す、「オーラソーマ」をちょっと部外者
的な立場から眺めてみる【ぱりさん】シリーズです。^^;

オーラソーマのカラーローズを“全人間心理のカラーインデックス”
に見立てて、その内部的なダイナミクスを連想して楽しんでいます。

ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでお付き合いいただければ、
案外、面白がっていただけるかもしれません。

「カラーローズ」を、人間の願い(意図・欲望)をすべて展開した
欲望のマップに見立てていたのでした。

「カラーローズ」を見れば、人間の欲望がどのような構造を内蔵し
て展開されているのかが、一目瞭然でわかってしまいます。

つまり、“美しい”何かを創造したいと望めば、それはじつは、
“美しくない”何かを創造せずには可能ではなかったのです。

何かを“美しい”と言うには、“美しくない”何か、“醜い”何か
を想定しなければなりません。

いわば、「現象」の一部に、ある“特徴”を付与することは、同時
にその“特徴”を持たない部分も創造することだったのです。

それは、“美しい”とか“醜い”とかいう定義が、ひとつの観念、
つまり意識の内容物だったからです。

意識の内容物は、「二元性原理」によって厳密に支配されます。

なぜなら、そうでないと意識世界の構造自体がメチャクチャの混沌
になってしまって、現象できなくなってしまうからです。

「カラーローズ」の「ブルー」とは、現象に向けて滲み出した実在
するものの“反映”、いわば“可能性全体”のようなものです。

「ブルー」から飛び出した「イエロー」とは、個別の体験を現象さ
せようとする“意図”とも言えるでしょう。

そしてその「イエロー」の“意図”を実現するには、「レッド」に
よる“物質化”(いわば“鈍感力”)が必要だったのです。

この「レッド」による“物質化”なしには、現象世界は現れること
ができません。

なぜなら、「レッド」の“鈍感力”がなかったら、事態はたちまち
整合して、対立も矛盾も生みだすことができないからです。

この「レッド」による“物質化”が、通常「客観性」と呼ばれてい
るものです。

ではこの「レッド」による“物質化”、「客観性」とは、何を引き
換えにして獲得されたパワーでしょうか。

それは自明性を可能なかぎり手放すことによって手に入れた能力、
いわば“無知の実体化”とも言える能力なのです。

現象世界の部分部分が、“自分”で存在していると誤解できるのは、
想像のなかにこの力が働いているからです。

通常「想念力」とか、「思考は実現する」などと表現されるものが
この力です。

この「レッド」のパワーの及ぶ範囲では、現象している部分部分は
“自分”で存在していると信じています。

そしてそのようなフィールドこそが、私たち人間のドラマが展開さ
れる場所なのです。

ところで、この現象世界にはもうひとつ「二元性原理」と表裏一体
の関係にある「知覚原理」とも呼べる原理が働いています。

それはいったいどんな原理なんでしょう?

というほど大袈裟なことでもありません。(*^_^*)

それは、現象は【知覚されなくては現象できない】ということです。

なにを当たり前のことを言っているのかと、思いますよね。

でも、これ、現象に関わる肝心な原理なのです。

では、この「知覚原理」が「二元性原理」と表裏一体の関係にある
とは、どういう意味でしょうか?

それは、この「知覚原理」の裏側の表現を見ればわかります。

【「二元性原理」の支配下にあるものは知覚する者になりえない】

ちょっと、何を言っているかピンと来ませんか?

ちょっとだけ辛抱してくださいね。(*^_^*)

じつは、「二元性の原理」というのは“創造原理”なんです。

現象を生みだすための原理、物事を創造するための原理です。

どんな状況からも新たな対立、新たな分岐を生みだせる原理です。

現象とは“永遠にダイナミックに流動するもの”と言えるかもしれ
ませんね。

そのいっぽうで、現象は【知覚されないと現象できない】という
根本的必要を抱えています。

しかし、では、何が現象を「知覚する」のでしょうか? (?_?)

その知覚を保証する実体を、仮に【知覚する者】【知覚者】と呼ん
でみましょうか。

その【知覚する者】が、現象に影響されるものであってはならない
ことはわかりますよね。

「鏡」が映しだす現象に影響されるようでは、現象を映しだすこと
ができないようなものです。

つまり、【知覚する者】は、ダイナミックに変動する現象によって
影響されないもの、でなければならないのです。

【知覚する者】が、“永遠の不動”でなければならないことが、
なんとなく直感的に納得できましたか?

そうです、現象を「知覚する者」は、現象の背景につねに存在する
【不動】【静寂】【沈黙】でなければならないのです。

先に、“美しい”とか“醜い”とかいう定義はひとつの観念だと、
つまり意識の内容物だと言いました。

そして意識の内容物は、厳密に「二元性原理」に支配されると。

「二元性原理」に支配される“意識の内容物”は、【知覚者】では
ありえないことが、なんとなく納得できますか?

般若心経のこんな言葉をお聞きになったことがあると思います。

色即是空(しきそくぜくう:現象はすなわち空である)

空即是色(くうそくぜしき:空はすなわち現象である)

「色」(現象)がここで言う「二元性原理」です。

「空」(不動、空間、無)がここで言う「知覚原理」です。

「色即是空」とは、ここでの文脈で言うなら、
【現象は知覚されなくては現象できない】ということです。

「空即是色」とは、ここでの文脈ふうに言うなら、
【知覚者は現象がなくてはありえない】ということです。

つまり現象に焦点が向かわないかぎり【知覚者】とは無なのです。

なんか、しち面倒くさい話に付き合っていただきましたね。^^;;

(*^_^*)

つまりですね、前回からの映画の登場人物つながりで言うと、映画
の登場人物は、映画を観る者ではなかったわけですよね。

映画では、物語のコンテキストも、物語を解釈する視点も、両方と
もスクリーン上に映写されています。

でも、その映画を観ている者は、映画には登場していません。

映画を観ているのは、観客であるあなたでした。

では、われわれが通常、人生と言っているこのドラマの場合は、
どうなっているんでしょう?

人生のコンテキスト(世界)も、人生を解釈する視点(自分の身体)
も、両方とも現象しています。

そして私たちは、自分がそれを見ている(と思っています)。

人生ドラマの場合は、解釈視点を表現する自分と、観賞者の自分の
両方が、この身体を持った自分だということになります。

そうですよね。

では、「ブルー」は「ブルー」を識別できないという原理は、映画
では通用しても、現実世界では通用しないのでしょうか?

「ブルー」な気分を表現している自分と、「ブルー」な気分を味わ
っている自分が、両方とも現象していますねぇ……。(-_-;)

いったい、誰が観ている者なんでしょうね?

この私たちが“現実”と呼んでいる現象世界に、その【知覚者】は
現象しているんでしょうか?

映画の場合は、観客は映画には登場できませんでした。

それは映画を観ているあなたでしたよね。

あなたは映画館の窓口で映画鑑賞の資格権(入場券)を購入して、
館内に入り、映画を鑑賞する資格を得たわけです。

映画の場合は状況は単純ですし、観賞者の物語への自己同化もごく
表面的です。

映画が終わって、場内が明るくなれば、観客はすぐに夢から醒めて
会場を後にします。

でも、どうやら【映画館から出た後の物語】から醒めるのは、それ
ほど簡単ではないようですよ。(^_-)

とはいえ、じつは基本構図はまったく同じなんです。

物語の背景となる文脈も、
そのコンテキストのなかで状況を解釈して物語を紡ぐその視点も、
ともに現象世界内部の事象です。

それらはともに現象世界のなかに現れています。

でも、そういう要素は、物語を表現する表現媒体であって、
物語を観ているその人ではない……。(-_-;)

それを語っているのが

【「ブルー」は「ブルー」を識別できない】

という原理、つまり「知覚原理」なのです。

私たちは大好きなドラマを手放したくありません。

いつまでも、いつまでもドラマを見ていたいんです。

それが、どんなに惨めな、つらいドラマであったとしても。(>_<)

それでもドラマに出て、そこで何者かの配役を演じたいのです。

人間が大好きな物語を表現するためには、
“文脈”と“視点”という二つの表現要素が必要です。

この二つの表現要素を、「世界」と「身体」と定義しましょうか。

「世界」は物語の背景コンテキストであり、
物語を解釈するための視点が(自分の)「身体」です。

これらは両方とも現象世界に知覚対象として現れています。

映画のなかに状況画像と主人公の映像が映写されているのように。

映画の場合は、その物語を味わっている人は別にいました。

それがあなたという観客でした。

あなたが映画を娯楽として味わうための資格が「入場券」です。

あなたが人生を娯楽として味わうための資格が「自己同化」です。

映画の場合は、映画が終わって館内に明かりがつくと、
観客は自動的に夢から醒めることになります。

では、観客が映画館を出た後も見ている
(現実という)物語の場合は、どうなっているのでしょう?

この物語の場合は、
通常、映画の幕が下りて、館内が一斉に明るくなる、
というわけにはいかないようです。

そうではなくて、映画の途中で、
まだ他の人たちは全員映画を観ているのに、
自分一人が退場しなければならないらしいのです。

まだ観てる途中なのに、後ろから誰かが来て、

「すみません、お客様の鑑賞券の有効期限ですが、じつは……」

とかなんとか、途中退場を要求されるらしいのです。(>_<)

(*^_^*)

まあ、そのお陰で、これが永久監獄にならなくてすむんですね。

映画というドラマを鑑賞するには、
「入場券」を買って映画館に入ることが必要でした。

人生というドラマを鑑賞するには、
「ゲームID」を持っていること、
つまり身体への「自己同化」が必要なんですよね。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこ
へ行くのか』( http://p.tl/0WWA )。(-_-)

実際、この旅はどこへ向かっているのでしょうね。^^;;

次に機会があったら、また「カラーローズ」を別の視点から眺めて、
勝手な連想を楽しませていただくかもしれません。

いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定され
た見解ではありません。

「オーラソーマ」がゲーテの色彩論から引き継いだ「カラーローズ」
という素晴らしいツールに触発された、まったく自由な立場からの
連想です。

お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>

                          pari 記


       ………○…………○…………○………

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