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巻頭エッセイ


第163号 【パリさん】:カラーローズ―イエローの心理

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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:カラーローズ――イエローの心理
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ぱりさんのオーラソーマ、今回はイエロー。

誤解のないように言っておきますと、ぱりさんもはじめから言っていますよう
に、これはオーラソーマの見解として述べているのではなく、ある、一個人に
とってのオーラソーマの色についての感想、というものです。

これはこの「オーラソーマ通信」があまり専門的になりすぎないように、オー
ラソーマに染まっていない立場からも意見を述べてもらうとどうなるかという
試みです。

そういうふうに視点を変えてみることで、誰もがオーラソーマについて考えて
いただけるきっかけになればと思うわけなんです。

色の言語は普遍的言語ですので、オーラソーマの専売特許ではありません。

ヴィッキーさんのが考えたように、誰もが自分で考えていくことができるわけ
なんですね。

ぱりさんにはぱりさんの考え方や見方があるでしょうし、私には私の見方や考
え方があります。

そして、これを読んでいるみなさんにもみなさんの見方や考え方があるのです。

ですから、知識として読むのではなく、自分で考えるきっかけとして読んでい
ただければと思うんですね。

私も本を読むときには、知識を学ぶということもありますけれども、いろんな
本を読むことで、発想やものの見方の視点を広げるということがあります。

自分で考えるきっかけを得るために本を読むわけなんですね。

そのためには、いろんな見方や考え方を知っておくのは有益だと思います。

ですから、ぱりさんの見解を読むことで、いろんな考えが刺激されると思いま
す。

今まで考えもしなかった意見や視点を知ることで、自分の考えや思考も広がり、
深まっていきますね。

それが自分の中での対話になるわけですね。

さて、イエローなんですが、ブルーの青い空の中に、イエローの太陽が現れた
ようなものとも言えるかも知れませんね。

空の青空のようにあらゆるところに偏在するに森羅万象としてのブルーの「存
在」に、太陽が現れたわけです。

それは、ぱりさんの定義によると、神の視界、独存の平和(ブルー)に、「個
別」としてちゃんと識別されたい、認知されたい、認められたい、という叫び
としての「イエロー」が誕生したということですね。

それはこの世に人間が誕生した、ということです。

人間としての「個人の意識」が芽生えたということです。

人間の成長段階で言えば、2−3歳ごろ、初めて、自分という意識をもった時
期があるかと思います。

それまではブルーの意識なんですね。

まだ「存在」ないし「神の意識」と別たれていないわけなんですね。

存在とひとつ、であった意識が体内に入り、母親の胎内で育つわけなんですが、
そのときも母親のひとつ、そしてすべては存在のなかではぐくまれて育ってい
るわけで、そこには通常、個人の意識、自分という感覚がありません。(まれ
に、体内でのことも記憶していることもありますが)

でもある日突然、自分は母親ではなく、父親でもなく、周りのものとも違う、
「自分」という意識に目覚めるわけです。

それが第一の反抗期の始まりでもあります。

周りのものとは違う「自分」というものを確かめるために、何にでも「いやだ」
「ノー」といい始めるわけなんですね。

お母さんにとっては頭の痛いところではあるでしょうが、そういうプロセスと
して理解してもらうしかありません。

それをあまりに押さえつけてしまうと、個人としての自覚が育たないか、反抗
が行き過ぎて、反抗のための反抗に陥ってしまいます。

それは成長のプロセスです。「個の自覚」の始まりなんですね。

オーラソーマでは、というかユングは、と言ったほうが正確かもしれませんが、
それを「個性化のプロセス」と言っています。

オーラソーマでは、それはターコイズ、つまり、ブルーに少しイエローが入っ
た、ターコイズからそのプロセスが始まり、イエローからゴールドのツルーオ
ーラ、ないしインカーネショナルスターまで続くわけなんですね。(これはコ
ースを受けた人にしかわからない言い方ですが・・・)

ぱりさんはここで非常に興味深い定義をしています。

イエローの意識を、

「見て、わたしは美しい!」

という一言に代表させても、そう不自然ではないでしょう。

というふうに言っています。

面白いですね。

イエローの「個人の意識」というのは、「自我」ないし「エゴ」ということも
含むのですが、それは黄色のスポットライトの中に飛び出して、「見て、見て、
私を見て!」ということなんですね。

そのために何でもしようとします。

ぱりさんは、この【第二の原色「イエロー」】が人間心理の世界で象徴するも
のを

               個別への意志
               自尊と不安
               (イエロー)
               
というふうに定義しています。

「個」は「全体」から分かたれたとき、不安が生じ、恐怖が芽生えます。

それがイエローの恐怖と不安です。

それは人間が個人としての意識を持ったときに必然的に生じる宿命でもあるの
ですね。

それがカフカとかサルトルの実存主義、存在することの不安、となったりもし
ます。

それらが個人主義の国、フランスやヨーロッパでブームになったのもうなづけ
ますね。

ここからのぱりさんの洞察はすばらしいですね。

このイエローの個は「虚構」だというのです。

ぱりさんは次のように言っています。

「全体」から飛び出した「個性」はなぜ“虚構”なのか、ですか?

それは、「個性」とは、「全体」のなかのスポットライトが当てられた部分の
ことだからです。

つまり「個性」とは、「全体」の一部にあえてスポットライトを当てることに
よって、「全体」の文脈のなかではじめて成り立つ意味を、あたかもまわりの
「全体」がなくても成り立つかのように装う虚偽のことなのです。^^;

スポットライトを浴びる勝者は、暗い影の中の敗者と観衆の存在なしにはあり
えません。

どんな「個性」も、「全体」という文脈なしには存在できません。

でも、存在しているのは「全体」だけだ、と言ったのではドラマは成り立ちま
せんよね。^^;

(ここまで)


仏陀は、この虚構のことを、この世は「マーヤ(幻想」だと言いました。

彼はなぜそのように言えたのでしょう?

それは彼が悟りを得て、マーヤでない真理を見ることができたからですね。

それは、実は個だと思っていたものが、それは全体でもあったのだということ
に気づいたからですね。

山川草木悉皆成仏

悟りを得た目から見れば、実はすべてのものは、皆、悟りを得て、仏性がある
んだということですね。

ブルーから生まれ、分離したイエローも、実はそれもブルーの中に存在して生
かされているということを自覚したわけなんですね。


とまぁ、そんなことをぱりさんのオーラソーマを読みながら考えさせられまし
た。

さぁ、みなさんはぱりさんのオーラソーマから、どのような発想を得ることが
できるでしょうか?

では、ぱりさんのオーラソーマ、お楽しみください。


        …………○…………○…………○…………


前回は、「光」が森羅万象として目に見える世界に姿を現してくるときに、最
初ににじみ出してくる色が「ブルー」なんだというお話をしました。

「時間的風景に喩えるなら、夜の闇がどこかに微かな光を感じ始めて、目覚め
の気配を感じさせるあの『かはたれどき』のようなものかもしれません」と。

そう思うと、この「ブルー」のなかに森羅万象として姿を現すすべての可能性
が包摂されているんだという話も、納得できるような気がします。

そして、この「ブルー」のなかに、森羅万象が姿を現す前の状態の名残が、メ
ッセージとして引き継がれていると言われれば、なんとなく信じられるような
気もします。

いわばそれは、顕現の世界に引き継がれた、非顕現からのメッセージのような
ものかもしれません。

「いつでも帰ってきていいんだよ……」と、目に見えない平安の世界が差しの
べてくれている“道しるべ”みたいなものかもしれません。

でも「光」のなかの“何か”が、非顕現の平安に微睡(まどろみ)み続けるこ
とには飽きたらず、顕現の世界に憧れたことだけは確かなようです。(@_@)

どうしても、目に見える世界に、何者かとして現れたかったのです。

単なる可能性としてとどまっているだけでは我慢できなかった。

自分がどれほど偉大で、勇壮で、美しくて、素晴らしいかを、自分の目で見て、
自分で嘆賞し、自分で経験したかったのです。

自分が自分であることを、あらゆるものに対して、全存在に対して、すべての
すべてに対して表明したかった、体験したかった。

自分の自分らしさを、自分らしさのすべてを、ありとあらゆる存在たちに知っ
てもらいたかったのです。

夜の闇ともいえる非顕現から姿を現したかったのです。

どうしても、暗闇の舞台のなかで一点、自分にスポットライトを浴びたかった
のかもしれません。

「かはたれどき」の「ブルー」から、いま一段の個別を識別するために明け初
める空の色が「イエロー」です。

蒼黒(あおぐろ)く静まる森羅万象に、一点を目立たせるために当てられたス
ポットライトの色が「イエロー」だったのかもしれません。

「色の心理」のテンプレート「カラーローズ」に、「ブルー」に次いで二番目
に差し込む光線は「イエロー」です。

どうしても非顕現の平安の中にはとどまって入られなかった“憧れ”です。

「自分」を「自分」として、ひとりの「個」として表現したい、嘆賞したい、
経験したいという憧れ……。

「個別」としてちゃんと識別されたい、認知されたい、認められたい、という
叫びが「イエロー」なのだとしたら……そのメッセージは?

……それを、

           「見て、わたしは美しい!」

という一言に代表させても、そう不自然ではないでしょう。

このとき、なにもこの“美しい”という言葉にこだわる必要はありません。

それは、“素晴らしい”でも、“神々しい”でも、“偉大です”でも、あるい
は、“勇壮です”でも、“善良です”でも、どんな形容の言葉でもかまわない
でしょう。

いや、そう言ってさえ、まだ語弊があります。

それでは、まるでポジティヴな形容語だけしか望んでいないことになってしま
います。^^;

それでは全体の中のネガティヴな形容語は、出てこられなくなります。

現象世界という二元性の世界に姿を現すことは、“醜い”と対の“美しい”を、
“悪い”と対の“良い”をまとわずには不可能なのですから。

とはいえ、現象世界への憧れを歌い上げる「イエロー」の心理を

       「見て、わたしはなんと醜いのでしょう!」

という言葉に代表させるのもちょっと変ですよね。 (^_-)

ですから、そこは素直に、「色の心理」のテンプレート「カラーローズ」に、
二番手として差し込んだ光線、「イエロー」の人間心理を、

          「見て、わたしは美しい!」

という言葉で代表させておきましょう。

ところで……、「光」が自らの可能性のすべてを顕現の世界に現したい、と望
んだとしても、それは了解できることです。

その荘厳な姿をすべてくまなく、そのあらゆる彩りをつぶさに、みずから表現
し、嘆賞し、経験したいと願ったとしたも、それ自体はとても理解できること
ですよね。

……でも、“その荘厳な姿をすべてくまなく、そのあらゆる彩りをつぶさに”、
“表現し、嘆賞し、経験したい”、というこの願い……、じつは、なかなか、
一言では表現できないような深淵を秘めてもいるのです。(-_-;)

そしてその“深淵”は、じつは、最初にも言った「フォーカス」ということと
密接に関係します。

つまり、“あらゆる彩りをつぶさに”表現し、嘆賞し、経験する、という場合、
それは「誰」が表現し、嘆賞し、経験するのか、という問題があるわけです。

人間心理の世界に最初ににじみ出した「ブルー」の心理を、

               神の視界
               独存の平和
               (ブルー)

と述べたことは、憶えていらっしゃると思います。

ここで「神の視界」とは、

         「じつは、自分独りしかいない」

ということを知っている“神の目線”のことだ、と言ってもいいですよね。

では、この“神の目線”で、“その荘厳な姿をすべてくまなく、そのあらゆる
彩りをつぶさに”、“表現し、嘆賞し、経験”できるでものしょうか? (@_@)

だって、“神の目線”は、「じつは、自分独りしかいない」ことを知っている
んですよ。

視界の中にさえぎるものがいっさい存在しない意識の位置にいるわけです。

すべてが自分であることが明々白々にわかっている状態です。

別の言い方をすると、「神の視界」とは、いっさいの影が見えない意識の位置
のことだと言ってもいいです。

いまさら現象世界を顕現して、個別を体験することがありえない意識の位置、
と言ってもいいです。

端的に言うと、“神の目線”とは非顕現にとどまっているフォーカスのことな
のです。

ということは、どういうことになるのか……。(?_?)

それは、“その荘厳な姿をすべてくまなく、そのあらゆる彩りをつぶさに”、
表現し、嘆賞し、経験したいと願うのは“神の目線”ではありえない、という
ことです。(>_<)

理屈っぽい気がしますか? (*^_^*)

でも、残念ながら、これはたんなる理屈ではなくて、ありのままです。

じゃ、そうだとして、けっきょく、どういうことになるのか?

それは、自らの“あらゆる彩りをつぶさに”表現し、嘆賞し、経験したいと願
うのは、全体の中の個々のフォーカスそのものだということです。^^;

           「見て、わたしは美しい!」

と言って、黄色のスポットライトの中に飛び出したのは、“あらゆる彩り”に
なりきった個々の視点そのものなのです。

こうして、現象世界に「イエロー」の光が明け初めました。

でも、いままで「全体」の中に微睡(まどろ)んでいたその「一部」が、自ら
の「個」を主張するためにスポットライトのなかに浮かび上がったのです。

自分を護ってくれている「全体」から一瞬「自分」を切り離して、「全体」の
なかでの「個性」を見てほしい、嘆賞してほしい、経験したいと飛び出したの
です。

そこには、不滅の「全体」から引き継いだ自尊と、「全体」から自分を切り離
すことによって生まれた固有の不安が揺動していたに違いありません。

スポットライトを求めて「全体」から飛び出した「個性」は、その「個性」と
いう虚構を維持するために、すぐに、時間の母である「記憶」というさらなる
虚構にすがらなければならなくなるでしょう。

「全体」から飛び出した「個性」はなぜ“虚構”なのか、ですか?

それは、「個性」とは、「全体」のなかのスポットライトが当てられた部分の
ことだからです。

つまり「個性」とは、「全体」の一部にあえてスポットライトを当てることに
よって、「全体」の文脈のなかではじめて成り立つ意味を、あたかもまわりの
「全体」がなくても成り立つかのように装う虚偽のことなのです。^^;

スポットライトを浴びる勝者は、暗い影の中の敗者と観衆の存在なしにはあり
えません。

どんな「個性」も、「全体」という文脈なしには存在できません。

でも、存在しているのは「全体」だけだ、と言ったのではドラマは成り立ちま
せんよね。^^;

だから、

           「見て、わたしは美しい!」

と言って、「個」がスポットライトを浴びた瞬間、すでに虚偽の“カラーマジ
ック”は成立していたのです。^^;

でも、現象世界を成立させるためには、この一線はどうしても越えなければな
りません。

そして、たとえ虚構ではあっても、いったん「個」の誕生に向けて扉をこじ開
けた以上、現象世界の誕生に向けた勢いを止めることはできません。

「個」を維持し証明するために、「記憶」が紡ぎ出され、「記憶」を確かなも
のとするために、「記憶」のインデックスとして「時間」が立ち上がってくる
のは、それこそ“時間の問題”でしょう。^^;

でも、誕生における虚偽を糊塗するために、「個」はいつも不安におののき、
いつも存在証明に駆りたてられています。

この【第二の原色「イエロー」】が人間心理の世界で象徴するものを

               個別への意志
               自尊と不安
               (イエロー)

という言葉で表したのは、そのためです。

これで、人間心理の世界を生みだすための大きな二歩目が踏み出されました。

また、この“虚偽”の一歩のために、現象世界に「イエロー」の光線が射し込
むといつでも、われわれ人間の中の何かが“緊張する”のです。

「ブルー」と「イエロー」の光線が射すことによって、物理次元には鉱物圏と
植物圏が展開する素地が生まれたことになります

でも、「ブルー」と「イエロー」の二原色だけでは、まだまだ現象世界は安定
基盤を得ていません。

……。

次回は【第一の原色ブルー】と【第二の原色イエロー】に次いで、現象世界を
安定させるためにどんな一歩が踏み出されたのかを眺めてみたいと思います。

あ……。(@_@)

初回にもお断りしましたが、これは「オーラソーマ」で認定された見解という
のではありませんからね、そのへん、ご了解を。^^;

お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>


                                pari 記

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